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静園遊記、静けさをもって浩然の気を養う
2017-06-06 著者:蒋婷婷 出所:tjtour.cn

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  天津の静園は1921年に建てられ、ラストエンペラーの溥儀の住処でした。本来の名は乾園、1929年から1931年まで、ラストエンペラーの溥儀とその后の婉容、淑妃の文繍がここに住み、「静園」と改名しました。建築スタイルはスペイン民居の様式を用い、中国と日本の木造建築の特徴を取り入れる静園は溥儀が天津に住むことを証明する証拠です。

 

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  夏の日、熱さは空気に漂う、園内の木の影はゆらゆら揺れ、日差しは頬に注ぎます。静かな庭園は遠くの現代的なビルと対照になり、その光景をみると、まるで時間が止まったようです。

 

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  静園はかつての日本租界に位置し、その名の通り、静かな普通な路地にいます。標準的な欧米式建物の中で中華民国の風格を帯び、天津の多くの洋館の中の特徴ある建物の一つです。

 

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  溥儀の寝室は本館の二階書斎のとなり、生活と休憩する場として使用されます。天津に住む間で、外出する時はこだわるイギリス産生地のスーツ、礼帽、ドイツのツァイス産のメガネを着こなし、ケルンの水とカンフルチンキの匂いを漂う、外国貴族のように振る舞いました。

 

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  元の文繍の部屋、生活の場として使用されます。1922年、溥儀が結婚している際は、文繍は婉容より一日前に宮入を果たし、「淑妃」に冊封されました。天津に住む間、溥儀の日本に頼る姿勢を賛成せず、さらに溥儀がその日本側に離れるべきという説得が聞き入れず、溥儀に反感を買われました。当時、溥儀と婉容は二階に住み、文繍は一階に住み、毎日本を読みふけ、用事がなければ溥儀と話もせず、赤の他人のようになりました。その後、溥儀の無関心と婉容の排斥のため、文繍は1931年8月に静園に無断で離れ、溥儀に離婚を申し込む、「妃の革命」と呼ばれました。文繍は中国史上初の皇帝に離婚を申し込む妃になりました。

 

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ここは溥儀の妻、婉容の寝室、中華民国と欧米の両方の文化を表します。木の色のピアノは装飾として社会の欧米化の表現の一つです。婉容は多才と言われ、静園の壁で溥儀との写真が飾っされます。

 

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   静園のとなりの部屋は陳列室として設けられ、多くの歴史の欠片が陳列され、見学者はその中で当時の時代の激動を感じます。展示は「紫禁城の黄昏」、「天津のお館様」、「関所を抜ける後」の三つのコーナーに分け、百枚以上の貴重な写真をてがかりとし、ラストエンペラー溥儀の伝説のような人生を顧みます。

静園の門をくぐり、車が頻繁に往来する天津市街を見ると、静園とはまるで別の時代のように感じられます。園内のすべては静けさに包みましょう、そこはもしかしたら屈辱、あるいは肝に銘じるような歳月があるかも知れない、まるで「ラストエンペラー」のセリフのように、

How can we say goodbye? As we said Hello.

(どうして我々はさよならを言う。こんにちはを話したのように)



住所:天津市和平区鞍山道70号


アクセス:地下鉄をご利用の場合は1号線鞍山道駅、3号線営口道駅で下車してください。

市バスをご利用の場合は、190系統、600系統をお乗りください。


開館時間:9時から17時30分、月曜日閉館、祝日の場合は除く



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